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梁塵秘抄(りょうじんひしょう)/鹿ケ谷の陰謀

梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡の集成。編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作。
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後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした。また、歌謡の歴史などについて、別に口伝集十巻を残した。

書名の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌のこと。

伝来
『梁塵秘抄』の名は『徒然草』第十四段に見える。また『本朝書籍目録』に二十巻と書かれている。しかし、近代までは口伝集巻第十が『群書類従』に収められたのみで、他の部分は失われたと考えられていた。

だが明治44年、佐佐木信綱らによって巻第二、巻第一と口伝集巻第一の断片、口伝集の巻第十一~第十四が発見された。大正から昭和にかけて、佐佐木信綱の校訂による本が明治書院と岩波書店から刊行される。したがって『梁塵秘抄』の中の歌が一般に知られたのは比較的新しいことである。

構成と内容
『梁塵秘抄』はもと本編十巻、口伝集十巻だったとみられている。しかし現存するのはわずかな部分のみである。また、口伝集の巻第十一以降については謎がある

本編
本編は、巻第一の断簡と、巻第二しか知られていない。歌の数は巻第一が21首、巻第二が545首、あわせて566首である。ただし重複があるので実際の数はもう少し減る。巻第一の最初には「長唄10首、古柳34首、今様265首」とあるので、完本であれば巻第一には309首が収められていたことになる。

多くの歌が七五調四句や、八五調四句、あるいはそのバリエーションの調子を持つ。しかし五七五七七の調子もあり、歌の形態は様々である。

『梁塵秘抄』と言えば、

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。
の歌が有名だが、数の多くを占めるのは

仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。
のような法文歌である。また、神社への道行や、風景を歌ったものも多い。現代人好みの歌はそれほどあるわけではない。しかし「遊びをせんとや…」や「舞え舞え蝸牛…」のような童心の歌、あるいは

東屋(あづまや)の妻とも終(つい)に成らざりけるもの故に、何とてむねを合せ初めけむ。
のように艶っぽいものもある。

口伝集
口伝集は各ジャンルの歌に関して書きつづったものだと考えられている。現存するのは巻第一のほんのわずかと、巻第十、それに巻第十一~第十四のみである。

巻第十一~巻第十四には、実際の歌い方が書かれている。しかし歌い方の伝承は絶え、現在解読は困難である。佐佐木信綱によれば、これらは後白河法皇自らの撰によるものではないという。のちにひとつにされ「口伝集巻第十一」以下の題名を付けられたと考えられている。もしこれが『梁塵秘抄』に加わるとすれば、総数は二十巻以上となり『本朝書籍目録』の記述に矛盾する。

現在発行されている古典全集の多くは巻第十一以降を省き、口伝集の巻第一と巻第十のみを収めている。巻第十一以降を見ることができるのは、一般的には岩波文庫だけである。たしかに巻第十一~第十四の内容は難解であり、全集に収めてもあまり意味がないかもしれない。しかし、解説にさえもこれらに関する記述が一言もなく、岩波文庫版を先に見たものは不自然に感じる。これは巻第十一以降研究の難しさを表しているのかもしれない。

各巻の内容
本編
巻第一
21首のみ残る。

巻第二
545首残る。写本は一冊のみ現存する。

巻第三~巻第十
欠巻

口伝集
口伝集 巻第一
文庫版にして2ページほどしか残っていない。神楽・催馬楽・風俗・今様の起源について語る。

口伝集 巻第二~巻第九
欠巻。

娑羅林・只の今様・片下・早歌・初積・大曲・足柄・長歌・田歌などについて書かれていたらしい。

口伝集 巻第十
撰者、後白河法皇の今様への関わり。いわば今様バカ一代としての後白河法皇の半生記である。十代の頃から今様を好み、昼夜問わず歌いまくり、歌の上手がいると聞けば召して聞き、歌いすぎで三度も喉をつぶしたという。その執心にはあきれるのを通り越して感動さえ覚える。まして、政治的には大変な時代であり、しかもその中心にいた後白河法皇その人の事績であると考えると、驚嘆せざるを得ない。

口伝集 巻第十一~巻第十四
前述の通り、もとは別の書であったと考えられている。歌い方の心得や、音律や拍子などが記されているようであるが、一般人には(おそらくは専門家でも)解読は難しい。

鹿ケ谷の陰謀
鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件である。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西(藤原通憲)の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。

安元2年(1176年)後白河法皇は50歳となり、正月から祝いの行事が続いた。平氏一門も法住寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。しかし6月に建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。相前後して、高松院(姝子内親王)・六条上皇・九条院(藤原呈子)が亡くなり、政界はにわかに動揺する。

まず母の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後白河の間には対立の兆しがあったが、12月5日の除目において後白河近臣の藤原定能・藤原光能が、平知盛らを超えて蔵人頭に任じられた。後白河院政派の躍進に対する巻き返しとして、翌安元3年(1177年)正月の除目では平重盛が左大将、平宗盛が右大将となった。建春門院という仲介者を失ったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。それでも3月14日に、後白河院が千僧供養のために平清盛が滞在している福原を訪れて平氏に好意的態度を示し、亀裂は修復されたかに見えた。

白山事件
ところが、後白河が帰京した3月22日、山門(比叡山延暦寺)の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした(白山事件)。発端は西光の子・師高が加賀守となり、目代・師経が白山の末寺・宇河寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。国衙の目代と現地の寺社が、寺領荘園の所務を巡り紛争を起こすことは各地で頻発していたが、この事件では白山が山門の末寺で、国司が院近臣・西光の子であることから、中央に波及して山門と院勢力の全面衝突に発展した。

後白河は目代・師経を備後国に流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。後白河は強硬策をとり官兵を派遣するが、翌日警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化する。大衆は激昂して神輿を放置して帰山、やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議した。4月20日、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。父親の西光については一時配流が決定された(『愚昧記』4月15日条)が、実際には後白河の取り成しを大衆側が受け入れる形で許されることになった。

山門攻撃準備
直後の4月28日、「太郎焼亡」と称される大火が発生、大極殿および関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失して、人々に衝撃を与えた。このような中で、後白河は突如として先の事件を蒸し返し、5月4日に天台座主明雲の逮捕を検非違使に命じ、翌日には座主職を解任、所領を没官すると5月21日に伊豆国へ配流した。西光が師高の流罪を嘆き、強訴の張本人が明雲であるとして処罰を訴えたことが原因であったという。また、『愚昧記』(5月5日条)によれば、著者の藤原実房が院近臣の藤原光能から先に延暦寺が起こした嘉応の強訴の際に大衆の強訴を明雲が許可していたとの密告があり、その証拠となる文書が届けられたという説明を受けたという。嘉応の強訴で配流された藤原成親は西光の義兄(西光は成親の父である藤原家成の猶子)であった。

ところが、座主の解任と配流に反発する大衆が再度強訴に踏み切るという噂が京中を流れるが、実際には解任と配流の取消を求める使者を派遣して後白河に却下されるに留まった。なお、この時後白河は警備担当者の検非違使山木兼隆に対して強訴の大衆が明雲奪還に向かった際には明雲を即刻斬首せよと命じたとされている(『玉葉』・『愚昧記』・『百練抄』)。5月22日明雲の身柄は伊豆の知行国主であった源頼政の兵に護衛されて京都を出発する。ところが23日に近江国(粟津とも国分寺とも)にて大衆2千人が護送の行列を包囲、明雲の身柄を奪回して比叡山に逃げ込んでしまった。頼政は後白河の叱責を受けるが、先に大衆と戦ったために却って捕らえられた重盛の郎党を目の当たりにしているだけにこれを防ぐ意欲はなかったと考えられている。次いで明雲捕縛に派遣された多田行綱も空しく帰還するだけであった。明雲の奪還と比叡山内への隠匿には全山的な合意があったと考えられ、日本におけるアジール出現の最初の事例とも言われている。

これに激昂した後白河は平重盛・宗盛(この時両名が近衛大将を占めていた)に対して坂本を封鎖して山門(延暦寺)そのものを攻撃するようにという命令を出したのである。驚いた2人は福原にいた父・清盛に判断を仰いだ。容易でない事態と判断した清盛は直ちに上洛し、27日の夜に京都に入った。28日に後白河と会見した清盛は攻撃には消極的で後白河を思いとどまらせようとしたが、後白河に押し切られる形となり、近江・美濃・越前の武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。

陰謀発覚
出撃直前の6月1日、清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した(『平家物語』、ただし『愚管抄』は清盛が福原を立つ前に行綱と会見していたという)。『愚管抄』によれば、後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという(ただし、慈円はこの事件に関する記述については「一定の説は知らねども」と真相を確認した訳ではないとも記している)。また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。なお、この会合を比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。多田行綱は明雲捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。

清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、全てを自供させると首を刎ねた。同じく呼び出された成親も拘束された。成親の妹を妻にしていた重盛は、命だけは助かるようにすると成親を励ましたという(『愚管抄』)。西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺、成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず殺害されてしまった。

影響
謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。また、清盛も後難を恐れて院御所への出仕を拒む諸臣に出仕を命じている(『玉葉』6月3日条)ことから、この時点で後白河への処分を見送ったと考えられている。

延暦寺攻撃という後白河の命令に清盛が抵抗した理由については次の理由が考えられている。当時の人々は神罰や仏罰の存在を真実であると考えられていた。しかも平安京を仏法で守護していると信じられてきた延暦寺を攻撃するともなれば、ただでは済まされず必ず仏罰を受けると思われていた。これは、『平家物語』のこの事件の件において、かつて関白藤原師通が延暦寺大衆の攻撃を命じた仏罰を受けて死亡したという故事を載せていることからも理解可能である。特にそれを命じたのが治天の君であり、「王法」の代表者とされた後白河であったことは、王法と仏法の相互依存によって国家が守護されるという「王法仏法相依」理念の崩壊を意味することにもなりかねない深刻なものであった。実際に攻撃を命じられた清盛の立場からすれば、延暦寺攻撃による因果応報によって自己及び平家一門が仏罰を受けて滅亡するという事態を危惧するのことは十分に考えられ、それを強制的に平家一門に行わせようとした後白河及び院近臣に何らかの意図を疑う余地があったと考えられる[1]。「延暦寺攻撃命令=平氏一門滅亡の謀略」という発想は、その後の足利義教や織田信長の比叡山焼き討ちの事実を知る後世の人々には突飛に見えても、清盛及びその時代の人々には通用する構図であったと考えられるのである[2]。

一方、重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任した。この結果、宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は修復不可能なものとなり治承三年の政変(1179年)へとつながっていく。

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2009年02月10日 10:36に投稿されたエントリーのページです。

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