« 日本への影響 | メイン | 第一次大戦は日露戦争以上の塹壕戦が »

明治宮殿は

明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。この明治宮殿は太平洋戦争中の1945年(昭和20年)5月、空襲による飛び火で焼失した。明治宮殿の焼失後、昭和天皇・香淳皇后は、吹上御苑内の御文庫(おぶんこ)を仮の住まいとし、1952年(昭和27年)からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。

戦後、1948年(昭和23年)に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった。
ひまわりの丘
ベロベロこぞう
みかんの花
ゆかいな家族
わがままパソコン実務
一休さんの最新コラム
乙女のまごころ
花莉菜の政治思想
希望の炎
巨人の星
結衣のスポーツサミット
剛昌の貧乏生活
四つ葉のクローバー
終わりなきメッセージ
少年時代
真赤な秋
生活実用チャネル
素晴らしき日常
大夢温厚篤実
田園の幸福

戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、自らの著書で「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた」旨のことを記している。

昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の住居(御所)とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.sdkpch.biz/blog/mt-tb.cgi/1244

About

2009年11月26日 01:03に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「日本への影響」です。

次の投稿は「第一次大戦は日露戦争以上の塹壕戦が」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35